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プログラミングとか英語とかの話題を中心にした至極ちゃらんぽらんな日記です。

いい加減に「社会人」という差別的な呼称はやめよう

僕は「社会人」という呼称が嫌いだ。その響きに醜悪な差別的印象すら受ける。一般に「社会人」といったら「会社員」のことだ。「学生」と対比して使われることが多いと思う。

「社会に出たら…」という言い回しも嫌いだ。学校は社会ではないのか?学生が知らないのは社会じゃなくて会社だろう。第一,関わる人間の範囲で言えば下手なサラリーマンよりも大学生のほうが広いはずだ。大学内だけで同世代の色々な人間と関わるし,教員や職員とも関係性を持つ。学会に出れば日本中の同分野の学生・プロの研究者と交流するし,国際学会なら日本人に留まらない。大学院だと働きながら学位を取得する人達と議論を交わすことも多いし,飲食店などでアルバイトをすれば様々な階層の人と関わることになる。大学生は違う価値観を持った様々な世代・人種と関わる。どちらかというと会社員の人間関係のほうが密度は高いが狭い。一般にそうであると言うことはできないが,僕の場合は大学にいたころより就職した後のほうが交流関係が狭くなった。

人間関係の範囲は重要ではないのかもしれない。学生と会社員では追う責任が違う。だがそれが「社会人」条件なのだろうか。

もちろん自分の生活費を自分で稼ぐという責任の重要性を学生に説くのは悪いことだとは思わない。労働は尊いものだと思うし,それがなければ社会は維持できない。だが働いてなければ社会人ではないのか?学生や専業主婦や年金暮らしの高齢者や病気で休職している人は社会の構成員ではないのか?そうすると日本人の約半数は社会人ではないということになるが,その定義を無批判に受け入れていいのか?

「社会人」という呼称は大人か子供という二元論でしか考えられない狭量な価値観に染まっているようですごく嫌らしい。何よりそれを学生に向けて使うのは,「君たちは社会的にはまだ人間じゃないんだよ」と言っているような気がしてすごく嫌だ。単に先発の電車に乗ったから先に目的地に着いただけなのに,まだ到着していない人を指さして「未熟だ」と言っているようだ(例えが悪い)。彼らは社会人としての責務を果たすために学んでいるのではないのか?教育にはそういう目的もあるはずだ。

なんだか勢いで書いてしまったのでとりとめのない文章になってしまった。「社会人」という呼称がなくなればいいなぁ。

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