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駄文型

プログラミングとか英語とかの話題を中心にした至極ちゃらんぽらんな日記です。

閉鎖的な集団に属し続けるとやっぱり自分を正しく認識できなくなるよね

昔あるツイッターユーザがこんなことを言っていた。

「私のネタポストはアルファの人達くらいにしかふぁぼられない。玄人好みなのかな?」

正確な内容ではないが,確かこんなニュアンスだったと思う。発言したのは,ネタクラスタと呼ばれるツイッターユーザに属する人だ。ネタクラスタとはRTやお気に入り登録されることを目的としてネタツイートを投稿しまくる人々だ。今はその文化そのものが廃れてしまって殆ど絶滅状態らしい。

ネタクラスタとは何だったのか - 頭かいわれだいこん

ネタクラスタの実態

当時僕はこの(自称)ネタクラスタの人をたくさんフォローしていた。彼らはそのネタの面白さは別として,ウケ狙いのネタだけをひたすらつぶやき続ける興味深い人達だ。殆どがつまらないネタばかりだったが,笑えるネタも多くあった。

Favstarなどのユーザのふぁぼがツールのおかげもあって,ネタクラスタは相互に結びつき,そしてフォロワー数やふぁぼられ数による序列のようなものも存在していた。中には万単位のフォロワーを有するいあゆるアルファツイッタラーもネタクラスタに何人も存在していた。そいったアルファツイッタラーを中心とするネタクラスタは,クラスタ内の結びつきが強いため内輪ネタばかりをつぶやくような人もいた。

冒頭の文はそんな内輪ネタの権化みたいな人がふとつぶやいた一言だ。彼はネタクラスタの中でも本当につまらない人で,既にネタクラスタ内で使い古された言い回しのパターンを多用するセンスの欠片もない有象無象のネタクラスタの一人だった。だが彼にはそれなりのフォロワーがいた。その理由を一言で言うなら,彼がアルファツイッタラーの腰巾着だったからだ。彼はアルファツイッタラーのつぶやきだけをひたすらふぁぼり,アルファツイッタラーを褒めちぎり,崇拝し続けた。いわゆる取り巻きだ。アルファツイッタラーは自分の自己顕示欲を満たしてくれる取り巻きに褒美を与える。ネタポストのRTだ。当然そのネタは一度のRTで数万人のTLに流れることになるので,RTもふぁぼも伸びる。そういったことが数回続けば,フォロワーも自然と伸びていく,という図式だ。また,アルファツイッタラーがRTをしなくても,日常的なつぶやきで取り巻きの名前が出てくるので,自然とクラスタ内での有名人になるのだ。

そんな金魚のクソ野郎である彼がネタを投稿しても,殆どのフォロワーは見向きもしない。つまらないからだ。唯一アルファツイッタラー達だけがそのネタをふぁぼる。これは日々の献身へのお返しだ。「いつもふぁぼの献上ご苦労。頑張ってネタを考えて偉いね」くらいの意味しかない。だからRTはしない。つまらないネタをRTしてしまうと自分のセンスが疑われるからだ。

うまくいかないもっともらしい理由を探してしまう

彼がいくらネタを投稿しようとも,それは伸びることはなく,アルファツイッタラー数名のふぁぼが得られるだけである。そんな状態が続いた最中に投稿されたのが冒頭の一言だ。僕はそれを読んで嘲笑するでもなく,あきれるでもなく,同情するでもなく,ただただ驚いた。人はこんなにも視野が狭くなるものなのかと。彼は多くのユーザから「面白い!」と参照されたかった。その証拠として大量のRTやふぁぼがほしかった。だが彼がネタを投稿してもRTやふぁぼは思ったように得られない。彼はこの認知的不協和を「自分のネタが受けないのは単につまらないからだ」という解釈の変更によって解消しなかった。彼にはそれを却下する根拠があった。それがフォロワー数とアルファツイッタラーからのふぁぼだった。自分は(ネタクラスタ内で)それなりに有名人だ。しかも自分のネタポストはアルファツイッタラー様達にふぁぼられている。このネタがつまらない訳がない!そうだ!このネタが伸びないのはネタ自体が玄人向けすぎるからなんだ!一般ピープルには伝わらないんだ!

やがて客観性を失う

すごい。狭い集団に居続けるとこんなにも盲目になれるものなのか。もちろん上記の思考は僕の推測にすぎない。だが彼の言い分を見るに,あながち的外れではないはずだ。彼はネタクラスタという集団に長く属し続けたために,「アルファツイッタラーはすごい。偉い。面白い。お笑いのスペシャリストだ」という荒唐無稽な考えを採用し,「自分のネタはつまらないのではないか」という至極当然な自己批判を捨て去ってしまったのだ。

こういった例は何もTwitterだけの問題ではないかもしれない。自分の属する会社・学校・コミュニティの標準的な考え方や序列に長く触れていると,その外側にいる人間からは奇妙だと思われる行動をとってしまいがちだ。

認知的不協和の理論―社会心理学序説 (1965年)

認知的不協和の理論―社会心理学序説 (1965年)

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